ロン=ティボーの覇者、宗次ホールに初登場!
若きヴァイオリニストが緩徐楽章を弾き始めた時、それはまるで厳かな聖歌のように音楽が拡がった。職人的な技巧と、内面を覗き込むかのような親密なタッチで・・・
(ベルリナー・モルゲンポスト紙)
2018年、ロン=ティボー=クレスパン国際コンクール(パリ)で見事優勝を飾り、注目を浴びているティシチェンコさん。(この時第5位を受賞されたのは、当館でもお馴染みの弓新さんです。)
今年のラ・フォル・ジュルネにも出演され、益々ファンを増やしています。
要注目の公演ですが、まずはティシチェンコさんのオフィシャルホームページに掲載されている、彼女のメッセージをご紹介したいと思います。(http://dianatishchenko.com/en/biography)
この世界では終わることのない新しい発見、慰め、達成感、そして真の豊かさが在ります。
幼少期、私は引っ込み思案で内気な子でした。喋る時間よりも、自分の楽器に向かっている時間の方が長かった。自然と、演奏することが自分を一番うまく表現できる方法となりました。
なぜ音楽家の道を選んだか?この道を進んでいく中で、音楽は私をよりよい人間に育ててくれていると気が付いたからです。毎日楽器に密に向かい合うことは、私の心を浄化する作用さえあるように感じます・・・練習の後は、いつも気持ちが前向きになれるのです。音楽に向き合い、感情の扉を紐解き、思考と歴史に浸ることにより、音楽という師から多くを学ぶのです。
聴衆の皆様と、音楽と通して数々の物語を共有することに、心からの喜びを感じます。私という個人の観点を通して偉大なる作曲家の考えに触れることが、人々の心に訴る一番の方法だと思っています。
今回は、ロン=ティボーで演奏し、喝采を浴びたプロコフィエフ:ヴァイオリンソナタ第1番を含む、期待のプログラム。
こちらに曲目解説を掲載致しますので、是非当日までのご参考にご活用ください。
ラヴェル:ヴァイオリンソナタ ト長調
40代に入り、天才作曲家の名をほしいままにしていたラヴェルは、タクシー乗車中の交通事故の後遺症により50代後半より作曲不能となってしまう。このヴァイオリンソナタは彼の最後の室内楽作品となった。途中、ツィガーヌやそのほかの作品と同時進行して作曲を行っていた上、推敲にかなりの時間を費やしたために、1923年に構想されながら完成したのは1927年のこと。「ヴァイオリンとピアノという2つの根本的に相容れない楽器のためのソナタを書く場合、それらの性質の違いに安定をもたらすのではなく、独立性を認め、融和しがたい要素を強調することが大切であると考えている」とラヴェル自身も述べている通り、それまでのフランス音楽、そしてラヴェル自身の作風からも一歩踏み出したような印象を与える作品である。
第1楽章
短く、クリスタルなピアノの前奏からスタートし、そこに少しレトロな風合いのヴァイオリンのメロディーが流れるように加わり、揺れながら展開してゆく。
第2楽章
この曲を特に印象付ける「ブルース」の楽章。ピアノとヴァイオリンにそれぞれ異なる調性が与えられて、一見ちぐはぐなことをやっているようなおかしさがある。ヴァイオリンをギターのようにかき鳴らしたり、ぬるりとしたポルタメントで歌わせてみたり、常に新しいことに挑戦し続けようとする作曲者の姿がそこには見られる。途中、有名な「左手のための協奏曲」に似た楽章も登場。
第3楽章
初めから終わりまで同じテンポで進む。最初の頃はどことなく「ピアノ協奏曲」の終楽章に似た雰囲気。ヴァイオリンが等速で動き回る中に、ピアノが打楽器的な茶々を入れ、途中には第1楽章や第2楽章で登場したメロディーが断片的に織り込まれて、一気にフィナーレへ向けて駆け抜ける。
エネスク:ヴァイオリンソナタ
第3番 Op.25「ルーマニアの民俗様式で」
作曲家エネスク(エネスコ)のことを、ルーマニア狂詩曲第1番を書いた愛国心溢れる作曲家、としてご存知の方も多いかもしれない。ルーマニアの5レイ紙幣にも肖像が使用されているこの国民的音楽家はモーツァルトにも匹敵すると言われる程の天才音楽家であり、クライスラーやティボーと共に20世紀初期を代表するヴァイオリニストとして世界中を演奏して回りながらトスカニーニの後継者として1930年代後半にはニューヨーク・フィルの客員作曲家兼客演指揮者を務め、またピアニストとしてもアルフレッド・コルトーと並ぶ程の賞賛を受け、音楽の事業家としての腕にも恵まれていたという、正に万能の音楽家だったのである。健康上と私生活での問題を抱えながらもこれだけの活動を行っていたエネスクは、またその人柄も謙虚で優しい人格者だったようで、ユーディ・メニューインは「私が今までに出会った中で、最も素晴らしい人物。他に類を見ない音楽家であり、今までに経験したことのない影響を受けた出会いだ。」と残している。
7歳でウィーン音楽院に進学、若年期は後期ロマン派のスタイル、後に20世紀の音楽語法を用いた民俗音楽を取り入れた語法へ、とバルトークと同じ変遷を辿ったエネスク、本日演奏されるヴァイオリンソナタ第3番は1926年に作曲されており、「ヴァイオリンとピアノのため」のソナタでありつつも、ピアノはツィンバロン、リュート、ピツィカートで奏される弦楽器へと様々に七変化、そしてヴァイオリンはフルート、コオロギやヒバリ、そして人の声を模した旋律(バルトークが朗読風な抑揚の旋律を用い、パルランド=ルバート〈話すようなルバート〉として採用)等として姿を変えることから、あらゆる楽器を総動員したソナタ、と言っても良いだろう。奏法や装飾音、ヴィブラートの大きさに於けるまで極めて細部にまで渡る指示が並び、メニューインは「逆説的に聴こえるかもしれないが、これだけ細部に渡って指示をすることによって、エネスクは即興演奏の音色を伝えようとしている」と話している。
副題には「ルーマニアのキャラクター(性格、の意味。スタイルという語は使われていない)で」とあるが、1928年のインタビューでエネスクはこのように語っている。“私は、〈スタイル〉という言葉は使いません。なぜなら、〈キャラクター〉という言葉は、そのことがごく自然に、昔から存在していたもののような印象を与えるのに対し、〈スタイル〉というと何か後から人工的に作られたような感じがするからです。こうしておけば、今後ルーマニアの作曲家達がこのような民俗の〈キャラクター〉を用いつつ、オリジナリティ溢れる、価値ある作品を生みだすことが出来るからです。”
この作品をエネスクと共に演奏したコルトーは、この作品の緩徐楽章について、このように残している。“ルーマニアの神秘的な夏の情景を呼び起こす曲。どこまでも静かな無人の平地、頭上には無限に広がる星座・・・”。
シマノフスキ:神話 Op.30
シマノフスキの最も有名な作品のひとつ、「神話」は1915年の3月から6月にかけて書かれ、ヴァイオリニスト、パウル・コハンスキ(1887-1934)の妻ゾフィアに献呈されている。コハンスキは、シマノフスキのヴァイオリンコンチェルト第1番のカデンツァを創った人物でもあり、他のシマノフスキ作品の編曲なども行っている。
ダブルストップ(重音奏法)、ハーモニクス(倍音奏法)、四分音(半音階の通常の音符間の中間の音を出す奏法)、グリッサンド・・・といった特殊奏法がふんだんに盛り込まれ演奏者に高い演奏技術が要求されるこの作品は、濃厚なモチーフ、繰り返される音色や主題の用い方など、スクリャービンのピアノ作品からの影響を感じることができる。
アレトゥーサの泉
作品中、最も有名な楽章。シマノフスキはこの伝説の元となった泉を実際に訪れ、その時受けた印象をこの作品にまとめたという。ちらちらと光るようなピアノに始まり、急速な跳躍や不規則な拍子は水の動きを表現し、そのテクスチャー自体が「主題」のような役割を担う。その上をヴァイオリンの高く舞い上がるような旋律が加わり、多調(2つ以上の調性が同時に演奏される)はギリシャ神話の幻想的な世界を、解決せずに連続していく不安定な和声は森の精アレトゥーサと、彼女に心を寄せる河神アルペイオスとの官能的な物語を描いてゆく。終盤では冒頭の旋律が、低い音域で再現。
ナルシス
「ナルシスト」という言葉の語源にもなった神話で、美少年ナルシスが、泉の水面に映った自分の姿に恋をし、触れることもできず、ただ見つめ続けた末、水仙の花へと化けてしまったという物語。緩やかなテンポで、先の第1楽章に比べ旋律的。コントラスト豊かな二つのメロディーがソナタ風の形式で現れるものの、展開部は存在せず、中間部には全く新しい着想の音楽が立ち現れる。
ドリヤードとパン
木の精、ドリュアスと、ヤギの角と足を持った森の神、パーン。前述の四分音によるトリルの冒頭は、夏の風を表す。中盤、伴奏のついていないヴァイオリンのハーモニクスの旋律は、ドリュアスの派手な踊りがパーンの笛によって遮られる場面。ここから前曲アレトゥーサの官能性やナルシスの憧憬といったシーンが入り乱れ、作品全体が凝縮される。最後は再びパーンのテーマが静かに回想され、pppで結ばれる。
プロコフィエフ:ヴァイオリンソナタ
第1番 ヘ短調
作品80
ロシアの作曲家プロコフィエフは、ラフマニノフと同時代の人物であり、彼と同じように革命後、アメリカへ亡命。しかし、祖国に帰らなかったラフマニノフとは対照的に、1935年ソビエト体制下のロシアに帰国、スターリンの「社会主義リアリズム」の要請に応える作品をショスタコーヴィチらとともに次々と世に出していった。
この作品は、プロコフィエフがソビエトに戻って間もなくの1938年に書き始められたものの、完成までには8年の歳月を要した。その間に第2次世界大戦が勃発、ソビエト国内ではスターリンの独裁体制が着々と組み立てられていた。さらにプロコフィエフ個人も1945年に階段で転倒し意識不明に陥るという事件に見舞われ、その後も後遺症に悩まされるようになってしまう。これらの内外の状況が、美しいメロディーの中に見え隠れする皮肉、最弱音で奏でられる響きの中に込められた強烈なパッションを彼の音楽にもたらした。
作品はヴァイオリニストのダヴィド・オイストラフに献呈され、1946年に初演、翌年、優れた作品に贈られる「スターリン賞」が政府から授与された。尚、プロコフィエフとスターリンが亡くなったのは、奇しくも同年同日の1953年3月5日であった。
尚、本作品はティシチェンコが一躍注目を集めることになったロン=ティボー=クレスパン国際コンクール(2018年)で演奏した曲目でもある。
第1楽章
この曲の核となる楽章。ピアノの低音から始まる不吉な響きに覆われた前半。楽章の中ほどでピアノが高音で美しい和音を弾き始めると、ヴァイオリンが音階の上下による速いパッセージで応える。プロコフィエフはこの部分を「墓場を吹き渡る風のよう」と呼んだ。
第2楽章
“ブリュスコ(粗野に)”の指示。前の楽章の沈黙と瞑想を破壊する荒々しい響きとロシア的な土臭いリズムが聴かれる。
第3楽章
細やかで繊細なピアノの高音と、弱音器付の密やかなヴァイオリン音色が印象的。
第4楽章
前の楽章の静けさを破る、5拍子や7拍子といった変拍子の騒動。その後、静かな中間部に入るものの、すぐに冒頭のリズミカルな主題が再現。なお一層ヴァイオリンとピアノが火花を散らし合いながら頂点に達すると、第1楽章で鳴らされた、あの「墓場の風」が吹き渡り、重い扉が閉まるように終わる。