【プログラムノート&曲目変更】11/7 ヴィクター・ローゼンバウム ピアノコンサート
11月7日(火)13:30~(¥2,000)出演のピアニスト、ヴィクター・ローゼンバウム氏よりご本人による曲目解説が届きました。
素晴らしい内容なので、ご紹介したいと思います。
アクロバティックな超絶技巧や、近年〇〇コンクールで優勝といったわかりやすいキャッチがある演奏家とは異なるかもしれませんが、是非一度聴いて頂きたいピアニストです。
※試聴できます
http://mp3red.cc/…/victor-rosenbaum-sonata-no-31-in-a-flat-…
ちなみに、曲目変更がございますので、併せてお知らせいたします。
当初予定しておりました2つのロンドに代わり、
ベートーヴェン:ソナタ第27番 ホ短調 Op.90が演奏されます。
チケットございますので、お電話にてお問い合わせください。
11月8日は名古屋音楽学校さんにて、公開講座も開催されます。
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■解説 (文:ヴィクター・ローゼンバウム)
本日お届けするプログラムは全て、作曲家たちの内なる言葉を綴った、深く親密な作品たちです。
シューベルトでいう舞曲や即興曲、ベートーヴェンでいうバガテル、ショパンでいう前奏曲やマズルカ…と同じように、ブラームスにとってもピアノの小品というジャンルは極めて個人的、内省的な感情を吐露できる場であり、かつ作曲技法の実験的な試みを表現できる分野でもありました。
ブラームスの後期ピアノ作品はその良い例であり、晩年作曲家としての活動に終止符を打つ心積もりであったブラームスが、最後の作品群として予定していたものでした。
その後ブラームスはクラリネット奏者、リヒャルト・ミュールフェルトと出会って霊感を受け、数曲のクラリネットの為の作品を手掛けるべく再び筆を執ることとなりましたが、その出来事がなければ後期ピアノ作品こそが彼の最後の言葉として意図され、綴られたものだったのです。
この作品たちがもつ計り知れない深さ、追憶の念、物思いに沈みゆくような深淵の境地はこういった背景から生み出されたものでした。
事実、ブラームスは【3つの間奏曲 Op.117】を、「我が哀しみへの子守歌」と呼んでいました。
実在するスコットランドの子守歌に基づいた第1曲、中間部では暗く恐ろしささえ感じさせるような世界へと導き、冒頭の主題が舞い戻る再現部は夢想的。更に深く自己の内へと沈みこむかのような第2曲は激しい苦悩の爆発、第3曲でその憂鬱は更に色濃く、暗い影を落とします。
シューベルトの【ピアノ・ソナタ 第13番 イ長調 D.664】は少し色合いの異なる若々しい世界を表現していますが、先のブラームスと同じ位に作曲家の秘めたる思いや内なる声が描き出されています。
この作品を手掛けた1819年の夏、シューベルトはオーストリアの田舎で過ごし、滞在先の2人の娘にピアノを教えていました。
この作品の献呈先と考えられている娘の一人にシューベルトは心を奪われていたと考えられます。
作品を通して感じるあたたかさや第1楽章の美しい旋律、第2楽章の優しさが、シューベルトの彼女に対する想いを物語っているようです。
第3楽章は舞踏のリズム。滞在先の土地に伝わるダンスから影響を受けたのかもしれません。
【ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 Op.90】はベートーヴェンのソナタの中で4つのみ存在する2楽章編成作品の内のひとつ。
第1楽章では劇的なドラマ性とパワーを兼ね揃えつつも、優しさに溢れる旋律が随所に編み込まれています。第2楽章はシューベルトの歌曲のよう。
その歌うような楽想は曲がすすんでゆくにつれ、より顕著になります。紡ぐ様に長いパッセージの度重なる登場は、―美しきことは何度でも享受して良いのだ―という作曲家の意思表示のように感じられます。
ベートーヴェンの音楽に於いて頻繁に見受けられる嵐が吹き荒れるかのようなドラマ性とは全く正反対に位置する、叙情性溢れるこの第2楽章。
激情の作曲家の心の奥深くにある最もやわらかく、優しい愛情溢れる面を垣間見ることが出来ます。
【ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 Op.110】はベートーヴェンがOp.109からOp.111まで三部作として手掛けた作品の2番目に当たるソナタ。
作曲家が三部作と意図していたのは明らかであり、ベートーヴェンが生涯をかけて発展させてきた「ソナタ形式」の頂点に位置する三作です。
最後であるOp.111が究極の運命や死の受け入れを表現しているのに対し、Op.110は己の運命と対峙し、目標への到達に向けて足掻く奮闘と熱望でしょうか。
第2楽章は苦しみからのつかぬ間の気晴らし。
その後続く2つのアリオーソのセクションはバッハの最も悲痛なアリア(ヨハネ受難曲より)を彷彿とさせます。
2つのアリアの間、フーガで顔を出す第1楽章からの断片は、その苦しみが高みへと一歩近づいたという確かな歩み。
2つめのアリオーソの終わりではベートーヴェン自身が「疲れ果て、嘆きつつ」…と記しており、途切れ途切れの和音は絶望と死を目前にして、今まさに消えゆく最後の息の根の様…そこへ奇跡のように現れるト長調の和音は、差しのべられた死からの救済の手。
和音は何度も、そして次第に力強く打ち鳴らされ、天国という未知の、しかしどこか懐かしみを感じる場所へと私達を導きます。
その後に続くフーガの主題は死にも打ち勝つ絶対的な生とその燦然と輝く力強さを描き上げ、作品は圧倒的に締めくくられます。
全ての音楽から私達が聴き、感じ得ること‐他の如何なる芸術とも異なる点‐は、夫々の人間の心とその人生の経験に極シンプルに、かつ鋭利に切り込んでくるところです。
そこに言葉は一切介在しません。
私たちが音楽を愛するのは、この芸術が私達自身の人生を雄弁に語るからなのです。